在るってこと

これは、独り言なんだけど忘れちゃいけないことで
私すぐ忘れちゃうから、あえてブログで残しておこうと思った。

4歳くらいのころから、自分は何のために誰のために産まれてきたのかを、
自分だけじゃなくて人間は何のために生きているのかを考えてて
今もほとんど毎日考えちゃうことなんだけど。

その答えが全然分からなくて、考え過ぎて自分は無力だと落ち込んだり
ただ生きてるだけで何も出来ないと立ち止まってばかりいて、
答えがでない問題を解こうとしていることが、もはや無謀なんだけど
意味や答えをずっとずっと探しちゃうのね。

答えが出ないけど、私はここに在るでしょ。
友達も親も、知人も大切な人も、ちょっとすれ違う人もそこに「在る」んだよね。
そこにいて当たりまえのように目の前にいたり、
離れて暮らしていても、そこにいるでしょ。
存在として、物質として「在る」んだよね。

それが、突然「無くなる」ときが来るんだよね。
肉体としての「死」なんだけど、目の前から存在(物質)として無くなるの。
その物質として無くなっても、「在った」ことは残っているから
無くなってはいないんだよね。

私が、今の仕事をするようになったきっかけをくださった方が亡くなりました。
その方から1つの案件をお願いされていて、お話をしていた時は漠然とだったけれど
「この案件をうまくやり遂げて継続できたら、恩返しができる」と思っていました。
だから、今私ができる最大限の力で取り組もうと準備をしていました。

いろんな気持ちがあって、私はこんなんだから(笑)
一人でいることも平気だし、誰とも話さない日があっても平気で。

でもそれ違うんだなと感じた。私は一人じゃなかったと。
繋がりが深いとか浅いとか、長いとか短いとかそういうことは関係なく
そこに誰かがいたから私もいて、私がいるから誰かもいることが出来ているんだと。

自分に自信がないとか、無力だとか、実力不足だとか、
そういうことも関係なくて、今の自分が大切で
今以上でもなく以下でもなく
「今を生きろ」と言うことは、今すぐにできることをやることなんだと思った。

もしも、私が明日肉体として無になったとしても
今私が在ったことは無にならず続いて在るのだから
今の在るを生かさなきゃいけないことなんだと思った。

物質としての無になっても、在ったモノに変わりはなく
始めは無だったものが在るようになったけど、無で。

私は何もできない無力な人間だと思っていたけど
人の想いを目に見える形に表すことを仕事にしているのは
すごいことをしていたんだなと気が付きました。

そんな作業を、無我夢中でやっていた若い私を
そっと見守りながら、時にアドバイスをくれ
親子以上に年が離れていたのに、
ポストペットまで付き合ってくれたり
浜崎あゆみのメールの着ボイスを設定し合って喜んでくれた
恩人への感謝を忘れずに、また迷ったり悩んだ時に
今日感じたことを思い返せるように。

これからは、自分の出来る力よりもちょっと上の力を出して
やっていこうと思ったよ。と言うお話でした。

今月は何だか泣いてばかりだ(笑)